植民地時代のアメリカで清教徒まずビールを飲んだが、蒸留酒としては、まず糖蜜を原料とするラムや、モモ、リンゴなど果実のブランデーがつくられ、1770年頃になって、ライ麦を原料とするウイスキーの蒸留が、ヴァージニアやノース・カロライナで始まった。ほぼ同じく、トウモロコシからの蒸留も始まったが、当初は、ライが主流だった。やがて、ヴァージニア西部がケンタッキー州となる頃からトウモロコシ・ウイスキーづくりが広がり、そこでつくられる酒もバーボンと呼ばれだした。
ライ・ウイスキーはその後も飲まれ続けたが、主産地メリーランドやペンシルヴェニアの政治的地盤沈下とともに衰退し、ことに1980年代にライの在庫が尽きかけると、人気が復活し、今は、主としてバーボン・メーカーの手でつくられたライ・ウイスキーが出回っている。
現在アメリカのウイスキーは、連邦アルコール法の規制のよってつくられ、分類されている。ウイスキーとは、穀物を原料とし、蒸留時のアルコール度が95%以下(以上はスピリッツ)で、樽で熟成したものをいう。ウイスキーは原料の穀物により6種類に分ける。トウモロコシ51%以上はバーボン、ライ51%以上はライ・ウイスキー、小麦51%以上はホイート・ウイスキー、大麦麦芽51%はモルト・ウイスキー、ライ麦芽51%以上はライ・モルト・ウイスキー、そして、トウモロコシが80%以上だとコーン・ウイスキー(コーン・ウイスキーだけは熟成しなくてもいい)。
こうしたウイスキーが2年以上熟成したものだと、「ストレート」と呼ぶことができる。 また、ストレート・ウイスキーを20%以上と、ほかのウイスキーないしニュートラル・スピリッツをブレンドした酒は、ブレンデッド・ウイスキーとなる。 実際にバーでよく見るのは、バーボン、ライ、コーン、そしてブレンデッド・ウイスキーだ。
人の体に入ったアルコールは、胃で20%が、小腸で80%が吸収され血液の中に入る。血液中のアルコールは肝臓に送られ、肝臓がアルコールの代謝(分解と処理)を開始する。肝臓にはアルコールの代謝に係わる酵素がいくつかあり、まずアルコール 脱水素酵素(ADH)等が、アルコールをアセトアルデヒドに変える。
さらに、アセトアルデヒドをアセトアルデヒド脱水素酵素(ALDH)が酢酸へと分解していく。酢酸は再び血液を通って全身へ送り込まれ、最後に炭酸ガスと水になって、体の外へ出ていく。体に入ったアルコールは、こんなに長い道をたどる。その旅の途中で生まれる、アセトアルデヒド。実は、赤面、動悸、吐き気、頭痛などお酒を飲んだときの悪酔いの特有の症状は、このアセトアルデヒドのせい。だから、アセトアルデヒドを早く分解できるかできないかで、お酒に強い、弱いが分かれていく。 生まれつき酒に弱く、わずかの酒を飲んでも顔が赤くなったり、吐き気を訴える人がいます。
アセトアルデヒドを分解する酵素のALDHには1型と2型があります。日本人の約46%の人は生まれつきALDH2型の活性が低いか欠けています。このタイプの人はアセトアルデヒドを分解する能力が低いため、少量の酒を飲んでもアセトアルデヒドが体内に蓄積されていくので悪酔いしやすいのです。 この体質は遺伝によるもので終生変わることはなく、努力で飲めるようになることはありません。 飲めない人にお酒を無理強いするのは、相手を苦しめることになるのです。
女性は男性に比べアルコール代謝能力が劣るとされ、同じ体重当たりのアルコール量を飲んだときの血中濃度は、女性の方が高く、酔いがさめるのが遅くなります。また、女性ホルモンにはアルコールの分解を抑える作用があるといわれています。したがって、女性は男性よりお酒に弱く、酔いやすいのです。女性がお酒を過度に飲み続けた場合、短期間(男性の半分)でアルコールの害を受け、アルコール依存症になってしまいます。アルコール依存症になる女性は最近増加しています。
酒の効用を医学的な面から裏づけるデータがあります。 適量なお酒を適正に飲んでいる人は、お酒を全く飲まない人や大量に飲む人に比べて、死亡率が低いのです。これを示すグラフの形から「Jカーブ効果」と呼んでいます。 これは次のような要因からくると考えられています。 虚血性心臓病(心筋梗塞、狭心症など)の予防効果があります。これはアルコールが心臓病を予防する善玉コレステロールの量を増やし、悪玉コレステロールを抑えるからです。
このような作用によってJカーブ効果があるといわれています。
バーボンのラベルなどによく見られる言葉に「サワー・マッシュ」がある。これは、発酵時に前回の蒸留廃液を25%以上添加する方法である。この方法によるもろみは、それ以前のもろみより、複雑な風味のウイスキーを作る。
この方法の発明者は、オールド・クロー蒸留所の創設者ジェームズ・クローと言われている。彼は、スコットランドからの移民でそうとう変人だったようである。1835年にケンタッキーに現れ、かなりの規模の蒸留所を作ったが、詳しい事は一切不明である。どう言うヒントからこのサワー・マッシュ法を発明したのかもわからない。
アメリカは独立戦争に、勝利を収めたが、政府は財政難に陥り、ウイスキーへの課税に目をつけた。この事で、ペンシル・ヴェニア で暴動が起きた。この暴動を鎮圧するためにワシントンが、独立戦争以上の大群を動員して鎮圧した。
この、ウイスキーの反乱に敗れた、農民たちは、ケンタッキーでとうもろこしからウイスキーを作り始めた。石炭岩層から湧き出る上質の水(ライム・ストーン)のおかげもあって、バーボンの生産に弾みがついた。
バーボンの名前はケンタッキー州のバーボン郡から出たが、この郡の名前は、独立戦争でアメリカをたすけたフランスのルイ16世のブルボン王家の名前にあやかっている。(BOURBON王家のBOURBONを英語読みしたもの。)
アメリカにウイスキーを蒸留し、飲むという文化をもたらしたのは、スコットランドやアイルランド系の移民達です。彼らはヴァージニアなどに住み着いたが、このヴァージニアのかなりの部分が後に、バーボン・ウイスキーの故郷である。
最初にバーボンを作った人といわれている一人は、1785年に、今のジョージ・タウンに移り住んだ、エライジャ・クレイグ牧師だった。彼もスコットランドからの移民の子で、牧師と同時に開拓民の子供のための学校も開いていた。やがて彼は酒の蒸留を手がけ、偶然、内側が焼けた樽で寝かしたウイスキーが、香りがよく、色もルビー色の美酒になる事を発見した。1789年の事であったという。
もう一人の発見者としてよく名前を聞くのは、エバン・ウイリアムズです。彼は1783年にルイヴィルで最初にとうもろこしから酒の蒸留を始めたとされている。しかし、クレイグ師説同様、証拠はなく、伝説めいている。むしろ、初期のケンタッキーでとうもろこしを作るものに土地60エーカーを与え、余った分を蒸留酒にして通貨代わりにする事を勧めたヴァージニア州知事トマス・ジェファーソンの方が、バーボンの父の名にふさわしいように思う。
テネシー州の名物といえば、カントリー・ミュージックとテネシー・ウイスキーだ。しかし、テネシーは酒には冷たい州で、その禁酒法は、国より10年早く始まって5年後まで続き、ほかの州の何倍も長かった。
テネシーのウイスキー産業は1825年頃から始まり、タラホーマのアルファベット・イートンが開発した、木炭濾過法を特色とした。19世紀末には、テネシーは蒸留産業の一大中心だったが、1910年の禁酒法で壊滅した。
ジャック・ダニエルの創設も例によって伝説的。1850年頃生まれた彼は継母に苛められ6歳で家出し、ルーテル派教会長老に拾われたが、長老は、蒸留器を持ち、この地独特の製法で酒をつくっていた。しかし教会の仕事が忙しくなり、ダニエルは13歳で蒸留をまかされ、19歳で独立、蒸留所を持った。彼は、商売熱心だった。酒も好評で、1904年のセントルイス世界博で金賞を獲得し、一躍有名になった。
彼は、禁酒法施行の翌年、金庫をけったさいの怪我がもとで死んだ。禁酒法解禁後、甥のレム・モトローが蒸留所を再建したが、彼の子は、跡を継がず、その死後、ブラウン・フォーマン社が買収した。ダニエルのウイスキーは1951年に雑誌フォーチューンに出た記事がきっかけで人気がでた。
ジョージ・ディッケルはドイツ系で、1870年にタラホーマに近いキャスケード・クリークに蒸留所をつくり、キャスケード・ウイスキーを売り出した。この死後、禁酒法で閉鎖していたが、後に大手のシェンリー社が商標権を取得、1958年に、元の場所と少し離れて蒸留所を復活させた。
両者ともにその特色は、一般のバーボンと違い、酒を熟成させる前に、テネシー特産のサトウケエデの木炭で時間をかけて濾過する「リンカーン郡方式」にある。その濾過のおかげで、芳香に富みながら、ウイスキーは軽やかに仕上がる。
南北戦争が1865年に南軍の降服で終わると、北部の工業資本が南部のバーボン産業に進出し、連続式蒸留器が登場。生産は、飛躍的に伸び、ジャックダニエル、ブラウン.フォーマン、エンシェント・エイジなど、大手企業や有名ブランドも、このころ相次いで創業した。
戦後のグラント将軍の時代は、マーク・トウェインなどのいう「金ぴか時代」で、汚職が横行。大統領側近も絡んだ「ウイスキー・リング」汚職事件では、大がかりな脱税で何百人ものウイスキー業者や官僚が告発された。 都市化や個人主義の高まりで、酒は、大いに飲まれたが、やがて弊害も広がって、禁酒、節酒運動が高まり酒税も高くなるなどして、反動が拡大した。伝統的ピュリタリズム、ドイツ系移民の醸造界進出への反感などもあり、ついに1920年禁酒法突入となった。
禁酒法は、密造密売による膨大な利益をマフィアにもたらし、その勢力の拡大を助長したが、節酒には役立たず、失敗に終わった。その間にカクテルも大いに流行し、むしろアメリカ独特の酒文化が生まれた。
禁酒法時代には、多くのアメリカ人がアメリカを敬遠し、パリなど外国に住んだ。その結果、ヘミングウェイ、セオドア.ドライザー、F・スコット ・フィッツジェラルド、エズラ・パウンド、シンクレア・ルイス、ガーシュインといった才能が花開いた。 バーボン業界も禁酒法13年のブランクを比較的短期間に回復した。第2次大戦後は、超大国アメリカの繁栄とともに、消費文化が繁栄を極め、酒場の開店後間もない早い時間の大幅なサービス「ハッピー・アワー」や、交際費による「3杯のマーティニつき昼食」といった習慣もまれた。
ベトナム戦争後のミー・ジェネレーション時代には、健康や自然への関心の高まりからワイン・ブームとなり、ウイスキー離れが広がった。しかし、80年代以降、アーバン・カウボーイ風俗の拡大で北カリフォルニアを中心にバーボン人気の復活も見られる。


